「真珠の耳飾りの少女」や「牛乳を注ぐ女」など、
身の回りの人物を描いたフェルメールは
日本でも人気ですね。
ちなみにフェルメールは
日本人の好きな画家5位に
ランクインしているそうです。
日本人の好きな画家ランキングはコチラ
今回はそんな市井の画家フェルメールについて
解説します。
目次
画家ヨハネス・フェルメールとは
![](https://i0.wp.com/kurohaku.com/wp-content/uploads/2017/10/Cropped_version_of_Jan_Vermeer_van_Delft_0021-216x300.jpg?resize=728%2C1010)
フェルメールは17世紀オランダ出身の
バロック絵画を代表する画家の1人です。
バロック期の美術について詳しくはコチラ
本名 は
ヤン・ファン・デル・メール・ファン・デルフト
[ Jan van der Meer van Delft]といいます。
光を緻密に表現した独特の作品が特徴で
享年43歳で亡くなるまで
長く故郷デルフトで過ごしました。
生存当時から多くの人々を魅了し続けている
彼の作品群は現代でも高い人気を誇りますが
日本では、2000年 大阪市立美術館で
開催された「フェルメールとその時代」展が
60万人もの動員数を記録したことで
フェルメール人気に火を付けたと言えます。
国内の展覧会だけにとどまらずその作品を
観覧する観光ツアーが組まれ
世界中を旅する人々がいるほど 今もなお
愛され続ける彼ですが
その知名度の高さに対して現存する作品総数は
33~36点と少なめで、
謎の多い画家とも言われています。
『光の魔術師』フェルメールとは
どのような時代を生きた画家だったのでしょうか。
なぜ彼は画家として成功していながら
少数の作品しか残さなかったのでしょうか。
また彼独特の緻密な描写や鮮やかな彩色は
どのようにして作られたのでしょうか。
そのヒントは彼が生きた時代と
祖国オランダを知ることで
見えてくるとも言えるのです。
【オランダ黄金時代】
![](https://i0.wp.com/kurohaku.com/wp-content/uploads/2018/07/dutch-windmill-3294416_1280-300x209.jpg?resize=728%2C507)
2018年現在からおよそ400年前。
17世紀(西暦1601年~西暦1700年)頃
ネーデルラント連邦共和国
(現在のオランダ・ベルギー北部に存在した国家)
で長く続いた平和な時代があります。
ネーデルラントが海運国、経済大国として
軍事、貿易、科学、
そして芸術が 歴史上世界で
もっとも優れていたとされる時代です。
現在でも風車で有名なオランダは
国土の4分の1が海抜0m以下にある為
当時から高い水工技術を誇り、その技術は
パナマ運河やスエズ運河の建設にも
活用されました。
加えて造船技術に優れ、当時世界の光学機器の
最先進国であった為 高度な望遠鏡を駆使した
天体観測にも秀で、巧みな航海術で
世界に進出していました。
![](https://i0.wp.com/kurohaku.com/wp-content/uploads/2018/07/thK9HW6R5C-300x235.jpg?resize=728%2C570)
天文学の父と呼ばれる
イタリアの学者ガリレオ・ガリレイも
世界で初めて作られたオランダ製の望遠鏡で
最初に月を見たと言われています。
このように当時のオランダは海運国として
東へ旅立ち
1602年 世界初の株式会社としても
有名な オランダ東インド会社
(Verenigde Oostindische Compagnie, VOC)
を設立します。
当時の「インド」とはヨーロッパ、
地中海沿岸地方以外の地域をさし、
東インド会社はアジア地域との貿易独占権を
与えられた特許会社でした。
日本に目を向けますとこの頃は江戸時代初期
にあたります。
江戸幕府が安定し将軍が力を付けてきた時代で、
すでにスペインやポルトガルなどの
キリスト教国の貿易を管理・統制・制限した
鎖国体制は強まっていました。
![](https://i0.wp.com/kurohaku.com/wp-content/uploads/2018/07/ship-2904969_1280-300x200.jpg?resize=728%2C485)
そんな中1640年頃には オランダ東インド会社が
日本や中国などのアジア貿易を独占した為、
オランダが西洋とアジアとの唯一の拠点
になったことで貿易センターとして
確固たる地位を築きました。
こうした貿易から安価で質の良い木材や金属、
香辛料が大量に輸入され、
ヨーロッパ諸国へ それらを輸出することで
ネーデルランドに巨額の利益をもたらしました。
15世紀末には神聖ローマ帝国の支配から
スペインの領土になっていましたが
80年もの歳月をかけて独立戦争を
繰り広げた結果、
1648年ネーデルラント連邦共和国は
独立を果たしました。
この時フェルメールは16歳の若者でした。
【黄金時代のフェルメール】
![](https://i0.wp.com/kurohaku.com/wp-content/uploads/2017/11/Vermeer_Johannes_-_The_Loveletter-259x300.jpg?resize=728%2C843)
当時のオランダ社会を支配していたのは
豊かで収入力のある都市の商人階級でした。
古来 絵画を購入するのは聖職者や
貴族・上流階級の人間でしたが、
法律家、学者、商人、実業家 などから成る
裕福な中産階級も豊かであった為
フェルメールも顧客には困らなかったようです。
フェルメール自身も画家業だけではなく
父親から譲り受けた実家の家業の経営にも
携わっており、
その上 大変裕福だったという妻の実家などの
資金援助もありました。
フェルメールの作品が愛される理由の一つに
特徴的な美しい青があります。
![](https://i0.wp.com/kurohaku.com/wp-content/uploads/2017/10/indigo-dye-598736_1920-300x158.jpg?resize=728%2C382)
その青い絵の具、ウルトラマリンは
当時純金と同様、もしくはそれよりも高価だった
と言われています。
なぜならウルトラマリンの原料である
ラピスラズリという宝石は当時ヨーロッパ付近
ではアフガニスタンでのみ産出されたのです。
その美しい青は海路で はるばる輸入された為
「海(マリン)を超えてきた(ウルトラ)青」
という「ウルトラマリンブルー」
と名付けられました。
当時ウルトラマリンは貴重であった為
どの画家もここぞというポイントでしか
使用しない色でしたが、
そんな高価な絵の具をフェルメールは
多くの作品にふんだんに使用しています。
![](https://i0.wp.com/kurohaku.com/wp-content/uploads/2017/10/leonardo-vermeer1-254x300.jpg?resize=728%2C859)
![](https://i0.wp.com/kurohaku.com/wp-content/uploads/2017/09/museum-1741653_1920-1-300x200.jpg?resize=728%2C485)
『フェルメール・ブルー』と呼ばれるほど
彼のアイコンともなった青を多くの作品に
使用できたのも彼が豊かな生活をし、
オランダ社会を支えた富裕層に求められた証
なのでしょう。
事実フェルメールの生涯最大のパトロンであり、
デルフトの醸造業者 兼 投資家でもあった
ピーテル・クラースゾーン・ファン・ライフェン
はフェルメールの作品を20点も所持し
彼を支え続けたと言われています。
カメラ・オブスクラという当時最先端のカメラ
を使って作品に細部への優れた描写を施した事
も当時のオランダ人らしい技法と言えるでしょう。
最新の技術と最上の絵の具で仕上がった
美しい作品は
オランダの上顧客に愛されるに
相応しい作品であり、
生活資金を気にすることなく時間をかけて
仕上げることが許されたのです。
フェルメールの作品は このオランダ黄金時代に
支えられたからこそ、
今もなお私たち現代人を
魅了し続けるのかもしれません。